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Posted by ミリタリーブログ at

2017年10月15日

戦場体験者と出会えるカフェ 2



A~Fまでの机に別れて其々の体験談を
お聞きする事が出来ました。
お話は自分の聞いてみたいと思う話を選択出来ました。


大阪は最年少80歳から97歳まで11名
(うち飛び入り1名)の体験者の方々が絞り出すように
辛い体験を、お話下さいました。

阪口繁昭さん
1928(昭和3)年 5月4日生まれ
陸軍 1943(昭和18)年滿蒙開拓青年義勇軍に志願
所属 第6国境守備隊
戦地 滿洲-シベリア


当時15歳の阪口さんが、
極寒の地、シベリアまで連行される数日前まで
滿洲でソ連兵と戦っていた阪口さんは空腹で
支給されていた食料も付き、落ちていたキャラメルの箱を
振ってその音に歓喜したそうです。
一粒のキャラメルに救われたとお話されていました。

1945年8月8日、
ソ連は対日宣戦布告とともに中国の東北地方に攻め込み、
兵士、幹部役人などの日本人およそ65万人を捕虜として
シベリア等ソ連各地の収容所に抑留。

鉄道建設や採炭などの重労働に従事させた結果、
人々が餓死、病死したという。


以下 阪口繁昭さんの
「あの戦場体験を語り継ぐ集いより」抜粋

シベリアはとても広い10月初めからマイナス25-30度となり
戦友たちが食べる物も黒パン7cm四方厚み3cm、
それと塩のスープが一食です。これで白樺の伐採、
石炭の運搬、腹ペコの状況での労働です。
昼の黒パンも朝食のパンと共に食べないとフラフラです。
大きな白樺の木を伐採中にほぼ倒れる方向を示して
逃げるように合図をするのですが栄養失調と行動の鈍さから
白樺の下敷きになり死亡し戦友が亡くなっていきます。

アバラ骨と背中とくっついているような状況では
木を避けるのは無理です。
それに道端に落ちている物はすべて食べられる物と思うのです。
それで腹痛が起きる。大便する戦友は皆に見られないように
人気の無い場所へ走る、コレが大変な事で、ソ連の警備兵に
逃亡と看做され銃殺される。私たちにとっては悲しい出来事です。


マンドリン銃30連発ダダーダダンと撃たれたその場で死亡
PPSh-41は大量生産しやすく頑丈な短機関銃として
第2次世界大戦中のソ連を大いに助けました。


丸いドラム型の弾倉を備えた姿を見てドイツ兵は「バラライカ」、
日本兵は楽器のマンドリンに似ている事から
「マンドリン」と呼んで恐れたそうです。


PPSh-41ペーペーシャ・ソーラクアジーン、ロシア語: Пистолет-пулемёт Шпагина (ППШ)
(Pistolet-Pulemyot Shpagina))とは、
第二次世界大戦時にソビエト連邦(以下「ソ連」と表記)で
使用された代表的な短機関銃。


戦争とは過酷な物です。
戦友の突然の死亡に悲しみの心は締めつけられます。
悲しい涙も出ないラーゲリ(ソ連の強制収容所)への帰隊です。

こんな厳しい労働から帰るとラーゲリーでいつも座り込んで
呟く戦友がいました。
隊長から何を呟いているのか聞けと指示され本人に聞くと
『ふるさと』の歌を歌っています。
隊長に報告すると、よしその兵隊に先達をとらせて
皆で唄えと命令。

『うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川』
繰り返し繰り返し歌いながら・・・。
やがて涙声になり泣いているのか?
歌っているのか?わからなくなりました。
歌えと命令した隊長も泣いていました。

たまりかねた隊長は
「よーしやめ!この位にしよう。
明日はまた厳しい労働が待っている。ゆっくり休め。」
そして、お互い助け合い祖国日本へ帰るんだ、わかったか!
といつも道理背中合わせで眠りにつきました。
隙間風が多くかなりの寒さなので皆で抱き合って眠ったそうです。

シベリア抑留を過ごした方のコートと靴が展示されてました。
とても薄く粗末な物でした。




翌朝、
隊長殿大変です、昨日ふるさとの歌を歌っていた戦友が
亡くなっています。ビックリした隊長も、
そうか歌わせて良かったなぁこれで満足したな。
死顔は笑みを浮かべたものでした。
ソ連の将校が来る前に皆で手を合わせ最後のお別れをしました。

ソ連の将校に報告すると、裸にせよとの命令
戦友を裸にすると死者番号を書けと言われる。
胸と背中がひっついて書けない、手足は細木のようで、
戸惑っていると、書きやすいのは太ももだと言われました。
白い石炭を焙ったものでやっと番号を書く。

隊長から遺体を外に出す時は目も閉じてやれ、
手足を真っ直ぐに伸ばしてやれと言われました。
真っ直ぐに伸ばさないと骨の鳴る音が聞こえてくるのだそうです。


隊長の命令で遺体を外へマイナス30度ですぐに凍結してしまう。
死体を積み上げながら、いつかはお前の後からになるかもと
手を合わせその遺体と別れたのです。

そのことが忘れられません。
今も凍結のシベリアの地で多くの遺体がそのまま放置されています。
この戦友たちに心から冥福を祈る毎日です。

当時15歳の阪口さんはこの後、
温情で一人祖国へ帰還されました。
その辺りの下りも大変なご苦労されているので
是非一度お話を伺いに行かれる事を望みます。

友人と号泣してしまいました。(><)

【主催】
戦場体験放映保存の会
http://www.jvvap.jp/

詳細はコチラもどうぞ
戦場体験放映保存の会 全国キャラバン隊が行く
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com  


Posted by G-SVG@West Side at 00:00イベント/イベントレポ